テコンドーとは?

テコンドーとは、武器をみにつけず、徒手空拳で相手の攻撃から身を守る護身術であり、厳しい精神、肉体的な訓練を通じ鍛えた手や足等身体を科学的に活用する方法と技の集大成です。

テコンドーは、1200種類の足技と2000種類の手技で構成されている。テコンドーというと、一般的に足技の武道というイメージが浸透しているが、それは足技を手技のように自由自在に操るのを特徴としているからであります。

テコンドー物語 第一章第二章第三章
テコンドーの技術 テコンドーの競技
テコンドーの級と段 テコンドー24の型
テコンドーの昇級課題
※PDFファイル
テコンドーの昇段課題
※PDFファイル

テコンドー物語

テコンドー創始者
国際テコンドー連盟
崔泓熙(チェ・ホンヒ)
国際テコンドー連盟
– ITF –
(International Taekwon-do Federation)
第一章 テコンドーの誕生
1918年11月9日…朝鮮半島北部の咸鏡北道(ハンギョンプット)の寒村で、テコンドーの創始者、崔泓熙(チェ・ホンヒ)総裁は生まれました。子供の頃、体が弱かったものの、芯が強く、愛国心も、誰にも負けない心の持ち主でした。12歳の時、日本の政権に抵抗し、国民学校から、無期停学処分にされてしまうという逸話もありました。
その後、有名な書道の大家で、古武術、テッキョンにも造詣の深い韓(ハン)イルドン先生に師事する様になりました。韓先生は、書道を教える合間にテッキョンを教え、虚弱体質だった崔少年に、健康を取り戻させました。

1937年、18歳の時に、日本の近代教育を受ける為、渡日することになった崔青年ですが、その2日前、体格も良く、腕力も強い、許氏と論争の末、大ゲンカになり、インク瓶を相手に投げ付け、大ケガを負わせてしまいました。崔青年、そのまま日本に渡ってしまったのです。許氏が相当に怒っていることを聞き、彼に対抗する力を養わなければ、二度と故郷には帰れないという恐怖にかられ、それがきっかけとなって、日本の京都で、同郷の先輩。金氏に空手を習い始めました。

1945年8月…第二次世界大戦後のソウルで、韓国国軍創立メンバーの一員となった彼は、翌1946年には、韓国陸軍少尉となって、軍隊に武術を教え始めました。この頃から本格的に武道の研究を始め、空手、テッキョンなど、様々な武術を基に、民族独自の新たな武道を作ろうとしたのです。
そして、1954年には技術的な基礎を完成させることが出来ました。この時、最も重要視されたのが、技術と精神を融合させることでした。精神修養には、東洋哲学と朝鮮の歴史を盛り込み、技術体系には、現代科学の理論を取り入れました。人が人としての道を学び、全ての人々が広くスポーツとして親しみ易く、健康になり、また健康を維持出来る武道がここに創られたのでした。
 崔総裁がテコンドーの研究を始めてから9年目の1955年4月11日、名称制定委員会により正式に認定され、ここに「テコンドー」という名が生まれました。テコンドーの「足台」は、踏む、跳ぶ、蹴る、という足技を、「拳」は突く、叩く、受ける、などの手技を、「道」は、礼に始まり礼に終わる人の道、すなわち、精神をあらわしているのです。
第二章 世界に向かって
国内にテコンドーを広めることに成功した、崔総裁は、世界にテコンドーを広める為、様々な準備を整え、4年後の1959年には、国際テコンドー師範団を作り、ベトナム、台湾にテコンドーを伝え、同年、韓国で大韓テコンドー協会を設立させました。1962年マレーシアの初代韓国大使に任命されたのをきっかけに、マレーシアにもテコンドーを伝え、その後も、ヨーロッパやアフリカなどの各地でテコンドーの演武を行いながら、着実に世界へ広めて行きました。そして、1966年、9ヶ国の承認を受けて、国際テコンドー連盟(International Taekwon-do Federation、略称:ITF)がソウルに発足しました。
初めての国際大会は、1969年に香港で行われた、第一回アジアテコンドー選手権大会で、その後、1972年、ITF本部を、カナダのトロントへ移すことになりました。そして、国際テコンドー連盟 崔泓熙総裁を始めとするITFのメンバーの、たゆまぬ努力の結果、1974年、念願の第一回世界テコンドー選手権大会が、カナダのモントリオールで開催され、それを皮切りに、翌年の1975年、オランダのアムステルダムで、第一回ヨーロッパテコンドー選手権大会が、1981年には、第一回テコンドー太平洋地域選手権大会がオーストラリアのクィーンズランドで開催されるなど、著しい発展を遂げました。
1985年以降、ITFは、オーストリアのウィーンに本部を移し、現在も活発な活動を続けています。今やテコンドーは、世界128カ国で親しまれ、競技人口は、4,000万人とも5,000万人とも言われ、その数は年々着実に増えています。テコンドーがここまで全世界的に普及、発展出来たのも、崔泓熙総裁を始めとするITF師範達の、テコンドーへの情熱の賜物と言えるのです。
第三章 日本国際テコンドー協会(ITF-JAPAN)発足
こうして、崔総裁の並々ならぬテコンドーへの情熱と、ITF師範達の協力により、テコンドーは現在、世界中に普及されるまでになりました。さて、ここで、日本におけるテコンドーの発展に目を向けてみましょう。第一章をお読みになった皆様は、もうお分かりだと思いますが、祖国が日本の占領下にあった、複雑な時代背景の中で、崔総裁は生まれ育ちました。正義・自衛・祖国の独立を糧に、テコンドーを編み出した崔総裁が、それを日本に普及させたいと思う気持ちは、本当に強いものでした。
数々の壁を乗り越え、国際テコンドー師範団が、ようやく日本にやって来たのは、1981年のことでした。しかし、日本での普及活動は、なかなか思うように進みませんでした。そんな時、東京都府中市を本拠に活動していた、在日朝鮮人の企業家 全鎮植(ジョン・ヂンシク)氏と出逢い、「精神性を重んじる、この素晴らしい民族の武道・テコンドーを、日本にも伝えたい」という、二人の気持ちが重なり合い、1982年11月、日本への普及の足掛かりとなる、モランボンテコンドー府中道場が創設されました。翌1983年には、二番目の道場が調布市に創設され、同年7月4日ITFの認可を受け、世界で76番目に、日本国際テコンドー協会(ITF-JAPAN)が発足しました。初代会長には、全鎮植氏(後にITF首席副総裁)が就任されました。支柱となる協会が発足し、黄進(ファン・ジン)首席師範を筆頭にして、首都圏から全国へ、テコンドーの道場は急速に数を増やしていきました。
1985年6月、国内初のテコンドー大会が多摩市体育館で行われ、1990年には、第一回全日本選手権大会が開催されました。目標となる黒帯大会が開催されたことに従って、修練者達の意欲がかきたてられ数々の強豪選手が育ち、後に、テコンドーの歴史を飾る名勝負を残して行くことになるのです。
ITF-JAPAN 初代会長
国際テコンドー連盟 主席副総裁
全 鎮植(ジョン・ジンシック)
日本国際テコンドー協会
– ITF -JAPAN –
(International Taekwon-do Federation Japan)
1992年第三回全日本大会の席で、テコンドーの親睦団体である、在日高麗テコンドー連盟(KTFJ)が発足し、現在、日本での、世界大会への出場は、JAPANチームとKTFJチームの二つに分かれています。又、1994年、第五回全世界大会では、オープントーナメント制を導入し、モランボン株式会社の協賛を得て「モランボンカップ」の冠をつけ、テコンドーは日々発展を続けています。道場に通えない人でも修練が出来るように、テキストやビデオを使った通信教育システムを取り入れ、全国各地に巡回稽古に出向く、キャラバン道場を稼動させ、ITF-JAPANを代表する師範、指導員が指導に回っています。きめ細かい指導で生徒達に接したり、活発に、他武道との交流試合を行ったり、その活動振りは、TVや雑誌などにも取り上げられています。

心と体を柔軟にして、
肉体と精神を強くして、
心身ともに美しくなる…

テコンドーを一緒にやってみませんか?